Ohne dich kann ich nicht leben.

きみがいないと生きていけない

シンデレラグレイ

 わたしは惨めだ。

 冬の寒い日のことだった。なんだか寂しくて、泣きたくて、仕方のない日だった。臨也くんは医者へ行っていて、いつ帰ってくるかわからない。臨也くんがいない。わたしを誰も慰めてはくれない。
 生きることが不安だ。やりたいことはたくさんあるのに、時間が圧倒的に足りなくて、それがやれるのかやれないのかが不安だった。夢だってあるのに、叶えられないかもしれない、評価されないかもしれないことが怖かった。
 なにもかもうまくいかないかもしれない。そんな妄想がぐるぐる頭の中を巡ってどうしようもなくなってしまう。ただ、泣くことしかできなかった。
 悲しくて、わたしは泣いた。大声で、嗚咽をもらして泣いた。子供のように泣いて、それでどうにかなるわけでもないのに、泣いて泣いて泣いた。
 その時、ガチャリと玄関の扉が開く音がした。臨也くんが帰ってきてくれたのだ。わたしの元へ、臨也くんが。
 リビングまでやってきた臨也くんは、大泣きしているわたしを目にすると、大きな目をさらに大きくしてわたしを見た。その目に、瞬間人間愛からの愛情が灯るのをわたしは見た。
「どうしたの?」
 臨也くんはゆっくりわたしへ近づきながら言った。わたしの背中に触れて、わたしの悲しみをまるで吸い取るかのように、よしよしと撫でた。
「怖いの」
 わたしは言う。
「やりたいことも、欲しい評価もなにひとつ得られないかもしれないと思うと怖くて仕方ないの」
 わたしがそこまで言ったところで、臨也くんがわたしを抱き締めた。
「ごめんね。臨也くんを東京へ連れて行かなきゃいけないのに、夢叶わなかったら行けないのに。ごめんね、ごめんね……」
 わたしがそう言うと、臨也くんはわたしを抱き締める腕に力をいれた。
 ごめんね、と連呼するわたしを、臨也くんは抱きしめ続けた。怖いと泣くわたしを、臨也くんは受け止めてくれた。
「大丈夫だよ。急がなくてもいいんだ。いつか二人で東京へ行こう。だから、今はゆっくり、自分のやりたいことをやりなよ」
 臨也くんはそう言って笑った。臨也くんをすぐにでも東京へ連れて行きたいのに、連れて行けないわたしを惨めに思うこともなく、ただわたしを受け止めてくれた。
「ごめんね」
 泣き濡れた声でわたしが言うと、臨也くんはわたしを抱き締めて頭を撫でてくれた。その少し冷えた体温が少しでも温まるように、わたしも臨也くんを抱きしめ返した。臨也くんのことが好きだ。だから、いつか臨也くんも共に東京へ行くのだ。また明日から頑張ろう。そんな気力が少しだけ湧いてきた。臨也くんの冷たい頬に頬をあてて、わたしは彼のために身を粉にする覚悟を決めた。
 臨也くん、どうか待っててね。わたしはかならず臨也くんを、東京に連れて行くから。待っててね。  

A Turtle's heart

寂しくなったサコと慰めてくれる臨也くんのお話

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一人だけの世界

 わたしにはわたしだけの世界がある。
 たとえば、わたしにしか聞こえない声がある。わたしにしか見えないものがある。
 普通じゃない――それが怖くて、わたしは一人、深夜のリビングでソファーの上に丸くなって、泣いていた。時刻は夜の三時。彼はとっくに眠りについている時間だ。わたしは一人で泣いていた。怖くて、寂しくて、泣いていた。
 普通じゃないということは、生きていく上でかなりのハンデとなる。世の中、人が生活を営むにつれて自然と形成されていった常識は、普通ではないものを徹底して排除しようとする。マジョリティーの中、マイノリティーに属するものが生きていくのには限界があるのだ。どれだけ普通を装ったって、いずれは纏っていた鎧が瓦解する。
 普通じゃない。わたしは統合失調症。普通の世界は見られない。それが悲しくてわたしは泣く。真冬の、深夜の暗がりの中で、リビングで一人泣いている。
 その時、ふわりと肩にやわらかいものがかかった。見れば、彼が仕事中にいつも膝にかけているブランケットだった。わたしは泣きはらした目で、そのブランケットの主を見上げる。どうしたの、と問うその声が美しくて、自分の醜さにまた涙がこぼれた。
「こんな夜中に、暖房もつけないでなにしてるんだい?」
 優しい声音だった。思わずすべてを吐き出してしまいそうな響きだった。
「泣いてるの」
「どうして?」
 彼はわたしの隣に腰掛け、わたしの顔を覗き込んだ。泣きはらした目元を彼は細い人差し指でなぞると、あとで冷やそうか、と言って、また微笑んだ。
「やりたいことはたくさんあるのに、たくさんありすぎてなにから手をつけていいかわからなくて、不安なの」
「そっか」
隣に座ったまま彼が笑う。人形みたいな顔をして、彫刻のように固い笑みを浮かべている。
「大丈夫だよ。一個ずつ整理してやっていけばいいんだ。今一番やりたいことは?」
「小説家になることだから、小説を書くこと」
「じゃあそれをゆっくり、自分のペースでやればいいんだよ。急がば回れ、ってね」
 彼がにこりと笑った。
「どうせわたしのこと、面白がってみているくせに、そんな優しい言葉をかけるなんて、どんな反応を期待してるのかな」
「そんなに疑わないでくれないかい。本心から言ってるんだよ」
 サコは俺の大事な同居人なんだから。そう言って彼がは笑った。その言葉を聞いて、少しだけ気分が上向いたのを感じる。でもそれも彼の策略だったら? 優しい言葉をかけてみて、わたしがどんな反応を見せるのか楽しみにしているのかもしれない。
 それならわたしは絶対にこの態度を崩さない、彼の思い通りの人間になんてなってやらない。そう思っていたら、突然手に冷たいものが触れた。何事かと思って手元に目を落とすと、彼がわたしの手を握っていた。そのまま引き上げられて、わたしの肩からブランケットが落ちそうになるのを、わたしは慌てて支えた。
「寒いし、こんな時間だし寝よう。やりたいことを考えるのは、明日もでもいいはずだろう?」  彼の冷たい手に引かれて、わたしは自室のベッドへと導かれた。
「寂しいなら、一緒に寝てあげようか」
「抱き枕があるから、そのサービスはいらないよ」
 わたしがそう言うと、彼は「つれないなあ」なんて言いながら、わたしの身体の上に毛布をかけた。
「なんでも、いつでも相談してね。深夜でもいいからさ」
 彼はわたしの頭を一度撫でてから、わたしの部屋から出ていった。彼のブランケットを剥いで、わたしはベッドの毛布の上に乱雑に放る。
 その気もないのにその気にさせる、彼のそんなところは受け入れがたいけれど、自分のやりたいことに邁進している彼のことは見習うべきかもしれない。わたしは芽生えそうになった恋慕を押し殺すと、目を閉じた。絶対に彼を恋愛対象としてはみてはならないのだと、わたしは思っている。
「本当はどうでもいいくせに」
 わたしの独り言は、部屋に小さく響いた。きっと彼には聞こえていまい。
 彼の言う通り、今は頭の中がごちゃごちゃで収拾つかないことになっているが、明日にでも順序を決めればいい。彼のくれたヒントに感謝しながら、そしてどうしようもない彼への不信感を抱きながらわたしは眠りについた。
 明け方、五時の出来事だった。

イザサコ

※イザサコ短文
※不安になったサコちゃんを慰める臨也くんのおはなし。

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