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Ohne dich kann ich nicht leben.

きみがいないと生きていけない

イザサコ

※イザサコ短文
※不安になったサコちゃんを慰める臨也くんのおはなし。

 わたしが死んだところで、きみは泣きも笑いもしないのだろう。

 今年も雪が降り始めただなんだと、自分とは無縁の土地の出来事を大仰に報ずるテレビの音量を下げて、熱いコーヒーを一口飲んだ。わたしはあまりコーヒーは好きではないけれど、未だ部屋にいる彼が好きだから、こうしてわたしは毎日彼のためだけに好きでもないコーヒーを淹れている。
 ニュースが芸能人の不倫の話になったところで、、わたしはテレビの電源を落とした。他人の恋愛沙汰になど興味がわかない。どうだってよかった。だって、誰が誰と不倫したって、そんなことは世の中ありふれたことで、今回たまたまそれを行ったのが有名人だっただけのことだ。わたしの生と同じ。誰が誰と不倫したところで、つづかなく世界は回る。
 世界は回る。誰もいなくても。誰が何をしても。
 トントンと軽い足音が聞こえてきた。彼が起きてきたのだ。わたしはすぐさま飲んでいたコーヒーを机において、彼のコーヒーを淹れる。
「おはよう、サコちゃん。今日は早いねえ」
「おはよう、臨也くん。わたしも毎日午後まで寝てるわけじゃないから」
 にこりと微笑んだ彼の顔の美しさに、一瞬手が止まる。彼の美しい顔にはなかなか慣れない。どんは表情をしていても美しい彼の一挙一動に、わたしは振り回されている。
「コーヒー淹れたけど、飲むよね」
「ああ、気がきくね。一杯もらえるかな」
「ミルクは?」
「ブラックでいいよ」
 なんとも思っていないふりをして、わたしは彼の分のコーヒーを用意した。そしてそれを、ソファーの上で「ああ、ここまでくるだけで疲れたなあ」なんて言っている彼の前のローテーブルの上に置いた。未だ車椅子生活の彼だけれど、最近少しずつ自分の足で歩く気になったらしい。わたしといえば、リハビリをする気になった彼のことを嬉しく思う反面、彼が一人で生活できるようになったらわたしは不要になるので、その喜びと悲しみの間で苦しい。彼の幸せがわたしの幸せ。そう自分に言い聞かせながらも、彼とずっとこの生活を続けていたいという自分の欲望の方が優っている。
「どうしたんだい? ぼうっとして」
 台所で突っ立っていたわたしに、彼が言った。
「臨也くんって、きっとわたしが死んでもなんとも思わないんだろうね」
 彼は面食らったような顔をして、わたしの顔をぱちぱち目を瞬かせて見た。
「わたし、臨也くんが一人で生きていけるようになったら邪魔者だもんね。臨也くんは、簡単にわたしを捨てるんだろうね」
「捨てるなんて、そんな物騒な言い方しないでくれよ」
 彼は困ったように笑って、コーヒーを少し啜った。
「捨てないよ」
 彼は言う。
「そもそも、人間は誰だって一人では生きていけないんだ。今の俺なんて特にね。身体も、若い時の無理が祟ってだいぶガタがきている。そんな俺が、一人で生きていけるはずがない」
「そばにいるのがわたしでなくてもいいんでしょう」
「そんなことないさ。俺はサコちゃんを案外気に入ってるんだ。余計な詮索はしない、俺の仕事の邪魔をしない――少なくとも、今の俺にはきみが必要だよ、サコちゃん」
 彼は飲みかけのコーヒーをローテーブルの上に置いて立ち上がった。そのまま、よろよろとした足取りでわたしのいる台所へと近づいてくる。壁に手をかけて、冷めたコーヒーの前で佇むわたしのことをじっと見る。
「今日は不安定な日みたいだね」
 彼は、わたしの前のコーヒーの周囲にばらまかれた薬の数々を指して言った。
「大丈夫、見捨てないよ」
「そう言って、今までの信者全員見捨ててここへきたくせに」
「きみと彼らは違うからね」
 台所の中へ、ゆっくりと踏み込んでくる彼に、わたしは一歩後ずさった。それを気にすることもなく、彼はわたしの目の前に立つ。身長の差で、見上げるようにわたしは彼の顔を見た。相変わらず、バカみたいに綺麗な顔をしていた。
「不安なんだろう? なら、俺がどうにかしてあげるよ」
 彼の腕に包まれて、わたしはほうと息を吐いた。不安が霧散していくのを自覚する。
「きみは俺の身体的介護をする。俺はきみの精神的介護をする。それでいいんだよ。きみは、辛くなったら俺に言えばいいんだよ」
 頭を撫でられて、わたしの目からふいに涙がこぼれた。頼れる人がいなくなるのが不安だったのだ。
「信じていいの」
 わたしは彼に問う。
「信じていいよ。逆に俺は、きみから見捨てられてもなんとも思わないけどね。きみが俺に見捨てられたくないと言うのなら、ずっと介護してあげるよ。俺はきみじゃなくてもいいけど、きみは俺じゃなきゃいけないんだろう?」
 子供をあやすように背中を撫でられて、安堵した。
「だから、きみが死んだら多少は悲しんだりするさ。きみのことだから、自殺とかしかねないし、そういう心配になるようなことはこれからあまり言わないでくれるかな」
 心配してくれてるんだ、わたしが言えば、当たり前だろうと彼が言った。
「本当にわたしが死にたくなったら、臨也くんのこと殺してもいい?」
「心中かい? まあそれも、今となってはいいかもね」
 彼の胸板に耳をつければ、どくんどくんと生が脈打つのを感じた。不安が消えていく。
「見捨てないでね」
「見捨てないよ」
 彼がわたしから離れて、わたしの顔を見下ろした。 「コーヒー冷めちゃったね。どうする?」
「いいよ。わたし、淹れ直すから」
「今度はカフェオレでお願いできるかい?」
 わたしは頷いて、冷蔵庫からミルクを取り出した。彼はそれを見届けた後、元いた場所へとよろよろとした足取りで戻っていった。
 わたしが死んでも、世界はつつがなく回る。けれど、彼がそれを少しでも悲しんでくれるなら、わたしには十分だった。心が晴れやかになって、鼻歌を歌いながらわたしはミルクを温める。その光景を、リビングのソファーで微笑ましく見守っているだろう彼の綺麗な顔を想像しながら、ミルクが温まるのを待った。
 ある朝、なんの変哲もない日の出来事だった。